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農薬の深イイ話

2023.01.01

カメラ

―眼となりてメモリーとなりて我がカメラ―
今持ち歩いているカメラは、ポケットに入るカード大のものと一眼レフ型の少し重たいものの2つである。カード大のものは旅行に行くときや隣町まで行く時など、腕時計のような感覚でバッグに入れてゆく。一眼レフ型の方は、出かける前から草花や鳥などを写すつもりで肩にかけてゆく。いずれもディジタルで自動焦点・自動露出機能があり、バッテリーの充電さへ気をつけていれば何の気兼ねなくいつでも写せる便利なカメラである。特に一眼レフ型方はそれ1台で超マクロから35ミリ換算で1000ミリほどまでの望遠にもなる優れもので、目が衰え、操作が面倒になった歳になった今では手放せない。
そんな手軽なカメラでもコンテストなどに出そうと思わなければ結構撮れるもので、それで充分である。しかし、やはりどこかで「もう少しキリッと撮りたい」という気持ちがない訳ではない。特に望遠の場合は少しの手振れでも遠くの被写体はぼけてしまい、なかなかすっきりとは撮れない苛立ちがある。三脚を使えばいいことは分かっているのだが、持って歩くのが面倒でいつもいい加減のところで妥協している。
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初めてカメラを持ったのは、中学生の頃だったと思うが、手のひらに乗るくらいの大きさで玩具のような代物で、“カメラ”といえるものだったのかどうか。ピントはほとんど固定でシャッターはただボタンを押すだけの60分の1くらい早さであったと思う。フィルムは“ボルタ”(?)といったか、1コマ3センチ角くらいのものであった。誰が写っているのかくらいは撮れた。本格的なカメラを持ったのは高校の修学旅行が間近に迫った頃で、勤めに出ていた姉や兄を焚きつけて二眼レフを買ってもらった。もちろんわたしのものではなく、姉弟みんなで使うもので、あまり知られていない「WALTZFREX」というカメラであった。修学旅行ではみんなが二眼レフを持っていて、わたしもなんとかその仲間に入れた。自分のカメラを持ったのは学生になってからで、兄の御下がりのアサヒペンタックスS2という一眼レフであった。
思い返せば、わたしたちの年代は技術革新の連続で、カメラも新しい機種が次々と登場し、これまでに10台以上もカメラを買った。しかしライカやコンタックス、ハッセルブラッド、ローライ、ゼンザブロニカなどといった高級なカメラには手が出なかった。初期のアサヒペンタックスは「アサヒフレックス」といってボディーの真ん中に船のハッチのようなふたを開けて上から覗く窓があって、レンズから入って来た像がフィルムの前の鏡で反射されて底のガラスに映り、それを見て焦点を合わせるものであった。しばらくするとハッチのようなものはなくなり、プリズムが内蔵されファインダーから直接対象物が覗ける機種となり、S2はそれであった。しかし露出は露出計で測ってレンズのリングを回して絞りを決め、ボディー上部のシャッタースピードダイヤルを回してシャッター速度を決めなければならず、まだまだマニュアルで、特に露出計を使わなければならなかったのが面倒であった。大抵はそれまでの経験で適当にF8/60などと決めていた。その頃から適当な撮り方をしていたのである。さらにしばらくするとシャッターダイヤルに連動した露出計が付属品として売られるようになり、ほかのカメラにも露出計が内蔵され始め、一気に露出の面倒が軽減された。しかしマクロや望遠での撮影にはそれなりの道具やレンズが必要でまだ簡単にはいかなかった。マクロの撮影はマクロレンズに交換するか、標準レンズとボディーとの間に接写リングという輪をはめるか、あるいはまた伸縮が自由にできるベローズという蛇腹式の筒を装着するかであった。望遠は200ミリとか500ミリといった筒の長いレンズが必要で、そのレンズが本体以上に高価なもの(今でもそうだが)であった。
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こうした面倒はディタル技術の進歩によって一気に解消されたが、“スマホ”などという通信と映像が自由に簡単にできる機器が普及してはもはやカメラそのものの出番がなくなった。少なくともスナップ写真程度の撮影ではカメラは駆逐された。
(鎌倉市在住 山室眞二)

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