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農薬の深イイ話

2022.11.01

満州帝国 北興化学とは

満洲国の歴史を知るには、”満洲回顧集刊行会(会長岸信介)”発行の全928ページ「ああ満州(国つくり産業開発者の手記)」は必読の書である。
この本の”研究と教育・試験場の項”で、元東京都害虫専技の白浜賢一さんが、満洲の公主嶺農試の熊岳城分場で同僚だった西圭一さんについて、戦後引き揚げて北興化学を興こしたことを記述している。戦後派の一般には、北興化学は主力商品が水銀剤であり、水銀の主産地が北海道の留辺蘂だったから北海道で興った会社と思われていた。
白浜さんの記述によると「西圭一氏は引き揚げ後農薬界に入り数年にして会社を興し、旧関係者を部下に集め、日本で指折り数えられる農薬会社の専務取締役として、元の上司や先輩、部下や後輩などの上に君臨し、農林省筋から満洲帝国北興化学とあだ名されている」、つまり北興化学の”北”が意味するところは北海道ではなく、満洲からの引揚者の一族郎党と揶揄されていたらしい。
白浜さんに紹介された西圭一さん自身の寄稿もこの本にあり、農薬のことには一切触れずに、”農業改良”の項「農業・農業行政と津田枝正」で次のような記述がある。
「満洲の農産技術の基礎は、満鉄農事試験場において形成されたもので、約三十年にわたる幾百千の研究者の頭脳と生命の尽力による血と汗の累積である」 「僅々数年の間に、戦時体制のゆがめられた形態であっても、その農産技術を最も効果あるように行政に取り入れ、顕著な農産物の増産を具現化させた中心人物は津田枝正であったと信じる」「氏は終始一貫滅私、至誠、朴訥として国事に献身して、満洲の歴史に偉大な足跡を残した」
津田枝正氏は、戦後中国に技術者として徴用されたが昭和28年帰国し佐賀県農試の嘱託として勤務。昭和31年弘前大学教授として、昭和38年停年退職するまで農学部長などを歴任し「日本の北方農業の師として、若き学生の訓育に、新設大学の整備に満洲で燃え残った情熱を傾注された」と西圭一さんは敬意を表している。
このように「ああ満洲」の白浜賢一さんの文章から始まって農業・農薬分野の人の繋がりが垣間見えてくる。侵略した国での各分野で国造りなど国際的には認められる筈はないが満鉄調査部発祥の農業・農薬のノウハウはどこかの国で根付き花開いていると思いたい。
白浜さんの、「ああ満洲」への寄稿は、”病害虫の研究者たち”、”断層二片”、”渋谷ハルピン学院長の自決”と3報あり、あとの2報は農業・農薬と全く関係のない話である。石炭の露天掘りの撫順で生まれ大連で育ち撫順で終戦を迎えている。大連では中学生のころ中国の軍閥の段棋瑞(だんきずい)に町で出会った。お供をつれた小さな老人であったが威厳を感じ思わず敬礼したとしている。あとの2報からは全く農業の話が書かれておらず謎多き方である。
ちなみに白浜賢一さんは昭和40年代、全農東京支所技術顧問、その後、日本農薬に勤務されている。
註)ハルピンと本文にあるが正しくはハルビン。満洲帰国者はハルピンと言う人が多い。
(ペンネーム 寅次郎)

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